物質的豊かさは生きる意味の欠乏を生んだ


YOAKE MUSIC SEANE 2014 レポート&スタディ 第5回 はじめます。

第4回はややクローズドな内容なので、メルマガ限定配信です。気になる方はこちらへどうぞ。

トピックについて、はじめての方はこちら。

楽器業界の革命家・椎野秀聰

今日のテーマは

成熟した社会はアートを育てる

です。実例を交えながら、社会が積極的にアート支援をすることの重要性を説明いたします。

一般に、アーティストや音楽人といわれる人々は、日本においては「何をやっているのかわからない」と思われていることが多いです。

つまり、社会に貢献しているのか、という部分が不明であり、そこがブラックボックスである限り、ふつうの人はアート属性の人たちを敬遠する、または自分とは別次元の関係ない人たちだと思うことが多いようです。

クリエイティブプロダクトやアート作品というのは、それがどんなに斬新であったとしても、認められないとはじまらないのです。

ベートーヴェンは死後50 年たってからやっと認められましたし、ピカソは生きている間は一枚も絵が売れなかった。モーツァルトは極貧のうちに死に、

ヘンリー・ダーガーは一生貧乏な掃除夫ですごして孤独死、絵を描いていることさえ知られていなかった。石川啄木なんか・・・もう言葉にできないほど凄惨な人生でしたね。

社会が作品と作者の価値を認めるには、時間がかかるのです。それか、作者や作品が新しい間は、それがいかにクリエイティブなものであっても(むしろそうであるほど)

絶対に認めない。とりあえず死ぬまでまつか、意図的に社会から抹殺する。それが社会の性質というものです。

なぜクリエイティブが社会に認められないのかというと、わかりやすくお金に換算できないからです。

ファクトベースの価値にしたら、印刷代とかパッケージ代ぐらいなもの。何がその価値かというと、完全に「情報的」なものなんです。

背景にどんなストーリーがあるのか、作者の信念は何か、生き様はどうか、どんな哲学を持っているか、というところが価値を高めます。

もちろん、技術的に優れているとか、構造が完成されているとかいう部分も大事な評価基準ですが、実はそれは周縁の要素です。

完璧な演奏や黄金比率なんてものは機械には絶対に勝てないわけですし、スキルベースではいくらでも競争相手がいるので、そこではたいして価値は発生しません。

プロよりうまいアマチュアミュージシャンなんていくらでもいますよね?でも、彼らが売れているかと言えばそうでないのは、そういう理由があるからです。マインドの問題です。

岡本太朗や村上隆さんの作品がぜんぜん意味不明でヘタクソでも一億で売れたりするのは、彼らの発言や精神に価値があるからです。作品はその人生の副産物でしかありません。

そもそもアートというのはお金に換算できないもの。今の社会は、何でもお金に換算しようとするから、アートは死ぬことになりました。

とくに日本はビジネスと文化をまるきり区別してしまう傾向があるので、両者相容れぬ関係になっています。

ビジネス人はアートなど儲からぬことをするヤツらなど理解できないし、軽蔑する。

アーティストはそれよりも強く、金稼ぎをするヤツらを徹底的に嫌悪し蔑み憎み遠ざけ見てみぬふりをする。

そんな現状があります。

ですが、同時に、積極的にアートを育てる社会も存在します。アートが適切な事業関係を結び、経済と文化を融和させ、社会に貢献している例です。

フランスやスウェーデンなどは、積極的に国や企業がお金を出してクリエイターを育てています。

古代ローマやギリシャでは、肉体労働をドレイに任せてやることのなくなった貴族たちが、

哲学や文学芸術の世界を開いていきました。

「成熟した社会は生きる意味の欠乏を生んだ」と言われるほど、社会は成熟と安定を迎えると、

哲学や芸術といったお金に換算できない価値の追求に向かうのが自然なのです。

いま、日本で求められているのはまさにこれです。

いいかげん何でもお金で価値を換算するのをやめて、もっと本質的な、大事なものを追求していく方向に向かわねばなりません。

これだけ豊かなのだから、クリエイターを支援する活動に踏み出さないと、どんどん社会が暗くなります。

以前、高崎市に市営のスタジオをつくった多胡邦夫さんのことを紹介しましたが、

こういう動きこそまさに希望です。

また、来年はRed Bull Music Academyが東京で開催されます。
Red Bull Music Academy

これは世界的に有名なイベントで、レッドブルという大企業がアート支援の一環としてやっているものです。

これだけでかくなった会社は、資本力を生かしてこのような活動をするのが当たり前になっていくのがこれからの時代なのです。

日本は成熟しすぎました。しかしそれはあくまで物質面で、です。これからは、国や大企業は積極的に、まだ未熟なアート産業やクリエイター業界の育成に

力を入れることが、生存の道となります。でないと、どんどん腐っていきます。すでに腐り始めていますがね・・・

これは、わたしたち一人一人に言えることです。社会を構成しているのは私たちひとりひとりなのですから。お金で換算できない価値を考えてみましょう。

興味がある方は、Red Bull Music Academyに挑戦してみてはいかがでしょうか。

詳細は近日発表のようなので、日々HPをチェックしましょう。

おわり。


音楽はほんらいの姿をとりもどす-The Court of the Crimson King Unlocked!-


YOAKE MUSIC SCEAN 2014 レポート&スタディ 第3回

テーマは

これからの音楽は”United”だ!

です。

これは、第一ディスカッション「すぐ外側からみる音楽シーンの未来」というテーマ内で

これからの音楽はどうあるべきなのかという問に対して、

椎野秀聰さん、若林恵さん、竹中直純さんたちの間で導きだされた、

具体的な結論らしきものです。

じつは、この対談自体はけっこうルーズな感じで、さすがは音楽人たちというか、即興でいろんな話に飛んだりして、

あまりまとまりのあるものではなかったのです。だから、わたしが一応要約して、一応結論らしきものを抽出しました。

さて、「これからの音楽はUnitedだ」これはどういう意味でしょうか。

前回までにわかったことを確認しましょう。

・業界では、新しいジャンルや技術やメディアとひとりの天才が登場するたびに、停滞していたシーンが活性化し新たなムーブメントが起こる
・現代は、それが起きにくい。起きても大衆化されない。
・無理な大衆化を目指さず、自分自身の「ネイティヴ性」を追求していく姿勢が健全である
・クソなレコードをつくるな

ということです。

これを踏まえていると、音楽はUNITED da!の意味がつかみやすくなります。

この言葉は、椎野さんの友人のジャズベーシストの確信的な発言であり、これからの音楽活動のエッセンスはこの一言に帰結すると椎野さんは考えています。

United,つまり「統合」「つながる」ということですが、音楽がUnitedするとはどういうことでしょうか。

具体的には何が起こり、どんな活動が盛んになるのでしょうか。

例えば、そのベーシストの方は、このようなことを言っているといいます。

「おれがオンラインを通して、延々とベースラインを弾いているとする。そしたら、だれかがドラムをたたきはじめて、ギタリストがリフを弾きだして、

いつの間にか歌が入ってて、気づいたら曲を演奏しているんだ」

まさにそんな感じで、音楽を通じたコミュニケーションがより活発化していき、コミュニケーションを介した活動に付加価値がつくようになるということです。

より具体的に考察すると・・・

・新しいジャンルや技術やメディアとひとりの天才が登場するたびに、停滞していたシーンが活性化し新たなムーブメントが起こる

ということが期待できないのですから、天才的に一発当てようとか、新しい作曲法の発明とか、曲自体の新奇さで勝負しようとしても無駄。

どんなにがんばってつくりこんだって、それはModification、過去のModificationのさらなるModificationにすぎない。だから、そこで張り合っても意味がない。

競争で負かされるスキル勝負をしたって、自分より優れたヤツはいくらでもいるんだから、無駄。

となると、ムリに新しい境地を開こうとするのでなく、自分のネイティブに忠実になって、純粋にシンプルな音、古典的な音、基本にかえっていく。

そこには新らしい発明はないかもしれないが、それをいまの現代人がやるということに意味がある。

・一人一人が個性に特化したネイティブ音楽が活性化する

ネイティブ音楽といっても、民族楽器とか使うものという意味じゃなく、自分が心の底から好きでやり続けることができるジャンルということです。

DTMが好きなヤツ、ジャズが好きなヤツ、アニソンが好きなヤツ、ゲーム音楽好きなヤツと、一個のジャンルに特化して追求していく活動が活性化する。

さらに、ここから先が重要で、似たようなジャンルの人たちや、あるいはまったく異なるジャンルの人が自主的に交流して、金儲けとか抜きにして、
何か一緒に面白い音楽をつくる。そして、人々を巻き込む。

音楽が鑑賞されるべき作品でなく、コミュニケーションを促す場として機能するようになるのです。今までもそのような働きはありましたが、

これから先はよりその性質が顕著になっていくのです。

だから、ひたすらギターやピアノに向き合って、譜面をぐしゃぐしゃしながら、あーでもないこーでもないとかいいながら音楽を発明し・・・

なんていう作り方は、どんどんなくなっていく。

話の中で面白い例が出たのですが、

「プロデューサーが有力な新人を発掘したとする。音源を聴く。

すると、確かに優れている。演奏も曲も完璧。サウンドも磨き込まれている。悪いところは見当たらない。

充分予算をかけてプロデュースするに値する。しかし・・・彼はふと気づいてしまう。

『なんだ、これってクリムゾンじゃん』

となると、もうそこで終わりだ。」

実際によくある茶番です。経験ある年長者がフレッシュな若者の作品を「それはあれね」とか言って一言のもとに切り捨て、作曲者の人生の方は無視する。

これってたまったもんじゃないんですよね。作った本人は、別にクリムゾンを意識していたわけじゃないのかもしれないのに。

優れているとしても(むしろ優れているがゆえに)キング・クリムゾンの焼き直しだとか断定されてしまって、それだけで却下されるわけです。

現場でこんなことが繰り返されていたら、いつまでたっても新人は育ちません。

たしかに、音はクリムゾンに似てたとしても、彼らの活動モデルがユニークだとしたらどうでしょうか。

たとえば、CDを無料でばらまき、ライブ録音OK、メールマガジンでファンクラブを自主運営、さらにスタジオで定期的に音楽講座をひらき、生徒からも作品のアイデアを募集して、

コミュニティ単位で作品制作をしていたりしたら?

それはそれで、存在意義がありますよね?

社会に対して機能を与えています。これはつまり、

クリムゾンキングの宮殿は開かれた!

ということです(W///・・・ちょっと言いたかっただけ)

音楽に新規性がなくとも、きちんと音楽で生産的な機能をもたらしているのです。

だから、今に生きるミュージシャンは、音楽面での決定的な天才的なスキルというよりは、

生き様やキャラクター、社会に対するユニークな貢献などで独自性を発揮することで注目されるようになるのです。

人々は、もう作品では選べなくなっている。だから、「誰がそれをやっているのか」「音楽人として何をしているのか」

という点で、その人を支持することになるのです。

そういう意味で、アーティスト自身が作品をシコシコと一生懸命つくるような音楽の作り方は、どんどん少なくなっていく。一部先端をいく人をのぞいては、

技術よりも在り方を磨く方が重要になっていくということです。

ミュージシャンの多くが、中田ヤスタカというよりは、岡本太郎的になっていくのかもしれません。

作品を爆発的に売って儲けなくても、ネット上で影響力をつけて応援してくれる人が100人もいれば、それだけで生活はできるようになるからです。

そういう意味で、自分のファンとの関係や、他者とのコラボレーションなどが、重要になっていく。

イコール、人とのつながり、ユナイテッドです。

これって、もともと音楽の本来の在り方なんじゃないかなと思います。

祭りにて、仲間たちと火を囲み、歌をうたい、ギターを弾き、曲ができ、引き継がれていく。作者は不詳、作者はみんな。著作権なんてない。

はじめからユナイテッド。音楽はみんなをつなげるコミュニケーション。

曲は、気がつけばそこにあるもの。そんな歌が、昔はたくさんあったはず。

ぼくたちは、無理矢理音楽を作り続けてきた。カネのために。

でも、もうそれが苦しくなってきた。

どうやら、一世紀あまりの技術革命時代を経て、ひとまわりして戻ってきたのかもしれませんね。

業界の大御所たちがこのことを感じているんです。

いま、間違いなく、時代の転換期が訪れています。

あなたは、何をしますか?