『憂鬱と官能を教えた学校』第2講義 調性Ⅰ 要約と解説


『憂鬱と官能を教えた学校』要約と解説をやってます。

第2講と第3講のテーマは、「調性」です。

「調性」と「調律」について考えるところから講義がはじまります。

調性とは、かんたんに言えばある限られたルールの中で使用する音のことです。

調律とは、楽器から出る音を、ある調性の中で使用する音に適応させることです。

「十二平均律による調整に調律する」のように使います。

調性は[Tonality]。「トーナリティ」であり、名詞。

調律は[Tune in or Tuning]。チューン・インまたはチューニングのことで、動詞ですね。

 

調律という行為は楽器をチューニングすることだけではありません。

わたしたちの身体には十二平均律が浸透してしまっているので、歌を歌おうとするとき、いきなり「ドレミ」の調性に声帯を一瞬でチューニングしているのです。これも調律です。バイオチューンです。

この「ある調性が与えられたときに人間が行う調律という行為とは何か」を深く考えていきます。まだバークリーの教科書は開きません。

最初に聴く音源はこれです。

Hermeto Pascoal-Tiruliluri

ブラジル大統領の演説を録音し、ループさせるごとにコードをつけたり、声を無理やり調律してメロディにしキーボードで弾いたりしています。

これは、「調律」という行為・現象を意図的に行っているわかりやすい例ですね。

わたしたちは会話をするときに、ふつう「ドレミ」を意識などしません。だから自分の声をドレミに合わせて調律などしない。しかし、パスコワールのキーボード操作によって、強引ですが声がドレミの世界に調律されてしまいました。

これが「意識的な調律」です。調律されていない自然音をある調性に合わせて調律する。

ここから、「調律」という行為を分析していきます。

 

調律には大きく分けて2つの操作があります。

・音程の固定

・倍音成分の決定

 

音程の固定が調律という行為のひとつというのは、かんたんなことです。たとえば話し言葉は次々につながって流れていくので、音程の固定はしません。しかし、「ハンター×ハンター再開したぞ」という言葉を、どこかで区切って伸ばしてみたらどうでしょう。「ハンターーーーーーーーーーー」「さーーーーーーーいかい」などとやると、伸ばされた音は必ず音程が固定されるのです。その音をドレミの中の一番近い音に合わせると、調律したことになります。

 

この実験で体感できるのは「音のアンビバレンス」両義性です。

調性というものがありますよね。ある調性がありますよ、という。すると同時に、ある調性に含まれない音も定義することになります。

十二平均律という存在は、十二平均律に含まれる音と含まれない音、つまり「調律済みの音」と「調律してない音」の2つを同義に定義してしまうわけです。

このような性質を菊地さんは次のように解説しています。

「あらゆる調性という規範は、その調性の内外、未調律と既調律、という二分化を設置するわけだけど、で自他ライジングである平均律は、排除や阻害の力動を表層に持ちながら、同時に、全ての雑音を近似値で調性の内部に取り込めるという構造も内部に持っている」

 

かんたんに言うと、

 

ドレミファソラシドというルールは、それ以外の音を仲間はずれにするという性格を持っていながら、すべての音を仲間にするパワーも同時に持っている、ということです。

 

ツンデレというやつですかね。

 

これが調律という行為における「音程の固定」を見直すことによってわかった結果です。おもしろいですよね。

 

すべての音はドレミの外にも中にもいける。

 

ドレミの外の世界が気になりますね。

 

次に、調律操作の2つめ、倍音の設計を説明していきます。

 


『憂鬱と官能を教えた学校』㊤調律、調性および旋律・和声 第1講 調律


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第1講義では、バークリーメソッドの先祖である「十二平均律」の成立までの歴史を超ハイスピードで見ています。

 

十二平均津」とは「ドレミファソラシド」のことです。

現代人は当たり前に素晴らしい音楽の恩恵を受けていますが、それは過去の音楽家や数学者や科学者たちが少しずつ音の仕組みを発見し、音楽の秘密を解き明かしてきたからということを意識してましょう。

日常的に聴いている音楽のほとんどは「ドレミファソラシド」の音階で作られているわけですが、そもそもこの「ドレミファソラシド」という7つ(半音を含めれば12)の音の並びが確立されるまで、数百年、数千年以上かかったのです。その間に、教会やら宗教やら権力者らの気分によって使っていい音がころころ変わったりして、多くの人が殺されたりしたのです。

その「ドレミファソラシド」のシステムである「十二平均律」、18世紀にバッハがやっと完成させたのですが、それまではずっとドレミのない世界で音楽を作るしかなかったのです。

バッハが1722年と1744年に『平均律クラヴィア曲集』を発表してからですので、それからまだ292年くらいしか経っていないんですね。

講義は参考を音源を聴きながら進められていきます。

紹介されている音楽はYoutubeで見られるものも多いので、内容と一緒にまとめてみます。

はじめに、現代の商業音楽の主流であるバークリーメソッドによってつくられた「音韻情報過多」的な音楽の典型例からスタートします。

Michael Brecker – Don’t Try This At Home

このように調性があいまいで、転調が多くてどのキーなのかよくわからない、やたらふわふわした感じというのが、俗にいうバークリーアレンジ「バークリー症候群」などという曲のお手本のような曲です。記号的な操作を盛り込むことで「スゴイだろー」と思わせ、イコール「スゴい」音楽と思い込んで酔っている(批判しているわけではありません)、現代の商業音楽教育の到達形のような例として代表的なサウンドなのですね。

 

ここから一気に歴史を巻き戻り、グレゴリアン・チャントオルガヌムという、ヨーロッパ古代のほとんど音程変化のない、声を一定の長さ重ねただけのような音楽を振り返って紹介しています。

で、すぐバッハの『平均律クラヴィア曲集』に入ります。はや(w)

現代のわたしたちが聴くような、ドラマティックなストーリーのあるサウンドになっています。えんえんと聴いていたいくらい、美しく緊密に計算されつくした音楽です。

ここから、世界の音楽は各地域の民族音楽しか存在しなかった(ヨーロッパのグレゴリアン・チャントもヨーロッパの民族音楽です)というハードコアな状態から、

誰もが楽しめる十二平均律というポップな世界に統一しようと動いていきます。

その「ポップ化思考」の最果てがバークリーメソッドであると言われており、十二平均律をベースに、すべての音を楽譜に表記して再生・反復・消費に堪えるような音楽としてデジタライズ化していこうという試みの結実ということです。

十二平均律というベーシックテクノロジー(基幹技術)をもとに、ダイアトニックコードはじめあらゆる作曲法が開発されていくわけですね。それはすべて十二平均律のモディフィケーション(修正版)であるのです。ビートルズもバークリーメソッドもモディフィケーションなのです。

そういったシステマティックな在り方や商業主義に飽きて、もっと自由な表現をしていいはずだという意識が露骨になってきたのが20世紀。次からはそういった流れの中で生まれた音楽の紹介になっていきます。

Atrium Musicae de Madrid-Tarentella Neapoli Tonum Phyrigium

 

これは「純正律」という、十二平均律とは違う音の並べ方をした調律で作られた音楽です。

聴いてみると、少し音が外れているように感じるのです。しかし、純正律では正確な音高を演奏しているのです。

音が外れていると感じるのは、わたしたちの耳が生まれたころから平均律に人工的にチューニングされてしまっているからなのです。

 

それから、平均律がもたらした良い面と悪い面を考察して、「音韻」と「音響」の話をしてから、また歴史の流れにもどります。

平均律は1オクターブをまったく等間隔に分割します。それによってどの調に転調しても誤差が生じなくなり、どこでも自由に転調してよくなりました。この快楽が強烈なのです。だから、転調しまくってふわふわしたおしゃれ感を演出するのが流行るわけです。

しかし、じつは平均律による分割は、自然物理からは逸脱しているので、中には平均律が濁って聴こえるという人もいる。

自然物理に純粋にしたがって1オクターブを分割した調律が「純正律」です。純粋な美しい調律、という意味ですね。これの信奉者は多いです。

人類は平均律で音楽を作るのが主流の歴史を選んだわけですが、もしかしたら純正律で音楽を作るのがふつうの世界があったのかもしれないのです。それは別のパラレルワールドの話でのことですね。

 

「音韻」と「音響」についてですが、言葉の通りです。音韻は「楽譜に書かれた情報」のことであり、ドレミとかコードとか、人間が頭の中で作っている音の意味のことですね。言葉と同じです。

音響とは、物理的に発生する音の響きに関するあらゆることです。楽器を弾いた時のノイズとか、空間の共鳴とか、楽譜に書き表せないことです。

もちろん音楽は物理世界でつくるものですから、音韻と音響は不可分です。どちらも大事。

しかし、十二平均律以降の西洋がもたらした音楽は、あらゆる音を記号化して整理しようという、「音韻過多」になってしまいました。それに異を唱える流派が、純正律や現代音楽などをやっていこうとうするわけです。

純正律の人たちは平均律を「病的」と言います。平均律音楽のセンチメンタルでドラマティックな内容を批判するのは、文学で20世紀の初頭オスカーワイルドらが唱えたArt for Art’s Sake「芸術至上主義」への反発と似ていますね。ナチュラリズム、Art for Life’s Sakeなどと言って騒いだものです。トルストイさんなんか嫌いな芸術家を名指しで攻撃する本まで出したりして、ほぼ発狂してましたからね。

バッハの曲などは、少し音響環境が悪くても良いと思いますよね。それは音韻情報が徹底的に作りこまれているからです。たとえ音響が悪くても、良くつくられた音楽は良く聴こえる。もちろん、音響まで良い環境がそろっていればもっと最高になります。

音がちっぽけでも音韻を賢くつくっていれば人を感動させることができる。これは80年代後半-90年代の日本のゲーム音楽とも共通しますよね。あの時代の人たちは、ブザーみたいな音とノイズで合計3音しか使えないという環境でドラマを作ってました。それくらい、平均律はデジタルな情報空間に存在しているのです。

 

そして、バッハ以降の音楽に入っていきます。クラシック音楽の世界も、十二平均律の呪縛から自由になろうと挑戦的になっていきます。

Pierre Boulez-『主なき槌』

Anton Webern-『オーケストラのための変奏曲 作品30』

アーノルド・シェーンベルグ-『浄められた夜』

Claude Debbusy-『沈める寺』

Karlheinz Stockhauzen-『ピアノ曲XI』

このあたりになると、ふつうの人はもうわけがわからなくなってきますよね。でもこれもきちんとした音楽表現なのです。完全に現代音楽の世界です。

 

こういうちょっと怪しい音楽は、SFやエイリアン系の音楽に使えるじゃん、てことでバークリーは容赦なくメソッド化しちゃっているわけです。ブーレーズさんたちクラシック界の高尚な芸術的境地としての表現でさえ、バークリーはじめ商業音楽はスコアリング用の道具にしてしまいます。

John Cage-Sonatas and Interludes for Prepared Piano

最後がJohn Cage。現代音楽の代表的人物です。

完全にドレミファソラシドの調律から離れ、バークリーメソッドも十二平均律も関係ないイレギュラーなサウンドの世界になっています。

プリペアドピアノといって、ピアノの中にいろいろなガラクタ(w)をたくさん仕込んで変わったサウンドを出す、という方法です。

このような感じで、十二平均律による音楽のデジタル化ポップ化の流れから、そこから逸脱しようとする現代にいたるまでの流れを俯瞰しています。

まとめ

これだけでも膨大な量の知識が入っているのですが、一つ大事なポイントを言うならば

 

十二平均律による記号化・大量消費用・音韻過多音楽は、確かに292年近く世界の主流の音楽ではあったが、

それとてあくまでも商業主義音楽派のヒット量産ツールというひとつの流派でしかないのであって、絶対に守らねばならぬルールというわけではない

ということです。


『憂鬱と官能を教えた学校』読み方


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憂鬱と官能を教えた学校

【バークリーメソッドによって俯瞰される20世紀商業音楽史】㊤調律、調性および旋律・和声

菊地成孔 大谷能夫

少し癖のある本なので、どんな風に読めばいいのかを書こうと思います。

1. 音楽の学習に

→広範な内容に触れているので、リファレンスとして使える。しかし専門的知識が身につくわけはではない。

とくに作曲をやっている人には新たな世界への道筋が見つかる可能性高い。初心者にもおもしろいので一読をおすすめ。上達してから読み返そう。

2. 教養のための読書として

→使える。アート系に関心あるならぜひ。しかし相当専門的な用語ばかり出てくるところがあるので、そこは興味がなければ苦痛だろうから読み飛ばしてよい。

3. 菊地成孔さんを楽しむ

ファングッズとして。

本の特徴 

この本は正式な理論書ではなく、菊地成孔さんという方の講演をコンテンツ化したようなものです。

ですので、音楽に関するひとつのトピックをまじめに学ぶために読む本ではありません。

あくまで菊地成孔さんという人物の講義であり、「バークリーメソッドによって20世紀商業音楽史を俯瞰する」という切り口で音楽の歴史をひもといていこうという試みです。

バッハによる平均律成立までの歴史的過程や音楽の物理的な構造の話からはじまり、作曲に関する基本的な知識から機能和声(ダイアトニックコード関係の話)やモードにいたる専門的な内容まで、ときおり菊地さんのおもしろい感想をからめながら講義しています。

「バークリーメソッドによって20世紀商業音楽史を俯瞰する」というコンセプトを軸として、いろいろなトピックに踏むこむことができるわけで、非常に複雑な内容になっています。

本の構成は、上巻では第1講から第6講まで、下巻では第7講から第12講までおさめられています。

それをメインに、講義の前にレジュメがあります。さらにおまけで講義に関する論文や「補講」としての「あとがき対談」もついてます。

というわけで、かなりボリュームのある本です。読書好きの音楽人で読書会を開くなら、この本で何年も遊べそうです。

おもしろいのが、レジュメと本講義の文体の温度差!

本講義の方はもちろん音声を書き起こしたものですので、自然な話し言葉なのですが、レジュメはあきらかに「作家・菊地成孔」のキャラクターがで書かれています。

レジュメとはふつう、講義の内容をおおまかにまとめたものでしょうが、このレジュメは彼の文章作品になっています。

講義2の前にあるレジュメ2では、平均律による調律システムに触れた後の文脈で、

―これは彼岸の果てとしての調律の死なのであろうか?

それとも青年期を終えた調律の解放なのだろうか?―

と問いかけて終わっています。

たぶんいきなり読まれる方には「・・・??」です。

菊地さんは作家としても活動しているので、ご自分の文体でレジュメを書いているわけです。

この少しメランコリックな文体のアート入っているレジュメを読んだあとに、自然体のきさくな菊地成孔にいさんの講義を読みます。

そのコントラストの激しさ!

そういう意味でもなかなか味わい深い本です。