絶対音感の弊害?放送大学「音楽・情報・脳」から


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放送大学の「音楽・情報・脳」2014年4月22日20:45-21:30に放送していた第3回、絶対音感に関する興味深い研究結果がありました。

内容をまとめてみようと思います。

まず、絶対音感の基準である十二平均律という概念は、そもそも人工的な概念であって、もとから自然世界に「ドレミ」という情報は存在しない。それは人間の脳に後からつくられた後天的情報、ということを前提として知っておくことが重要となります。

そして、そもそも音楽とは何か、という定義も簡単にしておかなければなりません。

音楽の定義には

・古典的な西洋の音楽の定義

・近代的な生物学的音楽の定義

があります。

西洋の音楽の定義

十二平均律で完全に分割されたデジタルな定常音(自然的なゆらぎのない音)のみを音楽の構成要素としての「楽音」と定め、

楽譜に表記可能な音の情報以外は音楽になることが許されないという思想が現れているのです。

が、これはピアノや電子楽器などのデジタル処理に相性のよい楽器のみを使用するものを音楽と呼ぶなら別として、じっさい物理的には発生せざるを得ない多様な自然音の偶然性、つまり倍音や演奏場所の音響情報をはじめから排除している点で不完全です。

そのため、音楽の定義を見直そうという動きが生物学の観点から行われました。

生物学的音楽の定義

生物学的な定義では、しぜん本来の音が持つ、複雑な倍音変化を含む連続的なアナログ情報を音楽と定義しています。

古典的な西洋の音楽の定義は、「楽音」という、楽譜に表記されるための音、つまり正確に十二平均律で区分された、余計な倍音変化を含まない、デジタルな、非連続的な音の情報を組み合わせることで構築される音楽情報という、かなり言語的な情報処理に近い、機械的な概念だったのです。

しかし実際、MEスペクトルアレイ法でスペクトル分析という方法で分析すると、倍音変化部分は離散的・定常的でも、基音の部分は連続的に変化しているのが実際の物理的な発音の仕方だということがわかります。したがって、西洋的な音楽の定義は「楽譜」に依存している、非常に人工的な概念であり、ほんらいの自然の音が持つ偶然の要素や曖昧さを排除しているため、少し無理があると言えるのです。

一方、生物学的な音楽の定義では、倍音を複雑に含み連続的に変化していくのが自然な非定常音を重要な音楽の要素としています。日本の尺八の音は連続的、非定常的なアナログ音であり、西洋的な音楽の定義では楽音ですらない音情報であるたった一音の持続状態にすぎないものであっても、われわれの耳にはきちんと音楽として認識されます。

ジュリアン・キーナンという学者は、絶対音楽を持たない人の脳と、絶対音感を持つ音楽家の脳の図を比較。すると、言語情報を処理するのに重要な役割を持つ左側頭平面、左前頭前野は差がないのに対し、右脳側頭平面は音楽家の方が小さいことがわかったのです。

絶対音感を持っている人は、十二平均律的な人工的に分割された「定常音」、つまり自然の音のような複雑な倍音変化をもたず、デジタルに正確な倍音しか含まない音を、言葉を認識するのと同じ部位である左脳の側頭平面と前頭前野で認識しているのです。

つまり、絶対音感能力者の脳では、十二平均律の音を「言葉を認識するのと同じ仕方で」「言葉を認識・運用する脳の部位を使って」認識しており、「音楽」として認識する脳の部位を使ってはいないそのため、音楽を言語情報のようにデジタルに処理することは得意であるが、音楽を音楽そのものとして感覚的に認知する脳の部位は使われなくなってしまうため、そこが一般の人に比べて衰退して小さくなり、脳が非対称的になっている、という観測結果が出ています。

そもそも人間の脳は一般的に非対称なのですが、それは言語をよく運用するために言語処理を行う左脳が大きく発達したためだと考えられていたのです。だから、言語に加えて音まで言語処理する絶対音感能力者は、ふつうの人よりもさらに左脳が大きくなっているだろうと考えられていました。しかし、絶対音感能力者の場合、じっさいは左脳が大きくなっているのではなく、右脳が小さくなっていることがわかったのです。

絶対音感を持っている人は、幼少期の音感トレーニングの過程で、音楽を言語情報と同じように認識するように脳の構造が変化しているのです。

つまり、絶対音感獲得の名のもとに、幼少期から音を言葉と同じように認識する強制的な訓練を受けたために、音楽を純粋に感知するための脳である右脳が衰退しているということが否定できない。音の高さが気になりすぎて純粋に音楽を楽しめないという話をしばしば聞きますが、それは正確すぎる音感のせいなのか、右脳が小さくなったせいなのか、どちらなのでしょうか。

では、まとめ。

そもそも十二平均律自体が人工的な概念であって、絶対音感はその人工的な概念に脳を強制的にデジタルチューニングするトレーニングの結果身につけてしまうもの。自然な脳を加工する処理である。

絶対音感は、左脳が音まで言語として認識するように設定された状態なので、左脳が強化されたということもできるが、じっさいは、

ほんらい音楽を音楽として自然に認識する部位である右側頭平面、連続的なアナログ情報としての音楽を認識する右脳の一部分が衰退している。

つまり、ふつう自然に音楽を感じる部位を使わなくして、言葉として音楽をデジタル処理するように脳の構造を変化させたのが絶対音感の仕組み

だから、音楽をしぜんな音楽そのものとして楽しむ機能が失われ、代わりに音楽を言語的に分析可能なデジタル情報としてインプットするように脳がプログラミングされている状態。

これは果たして、本当に音楽を楽しむためにはどうなのだろうか。職業として音を認識、分析するには有利でしょうが、音楽の本来の姿を感じて楽しむ能力は一般人よりも失われるなんて、本末転倒な気も。だとしたら、みながあこがれる絶対音感の能力は、なんという矛盾と罪を押し付けるものなのでしょうか。

とはいえ、音感はやはりあった方がいいのも音楽をやる上は本当。できれば強制的にというより、自分の音楽的ゴールのために楽しみながら鍛えることができればいいです。楽しめなくなったら、楽しくない音楽しかつくれなくなってしまうものです。