情報戦争をたたかう


情報戦争をたたかう音楽屋さんのしごとクリエイト【おとやサロン】今日は少しまじめに「情報戦争」の話をしたいと思います。

音楽に関係ないじゃんと思われるかもしれませんが、

あらゆる活動に関係してくることですので、誰もが意識しておかねばならないことなのです。

世界の戦争事情は、武力を用いた物理戦の時代はとっくに終わり、情報戦争のフェーズに移行しています。

武力戦争は物理的なコストがかかりすぎるし、今はわざわざ殺戮をしなくてもテクノロジーで人を支配できるので、多大なロスを覚悟して物理戦争に投資するよりも、メディアや外交政策を用いたクリーンでスマートな戦いを仕掛けるのが効率がいいのです。

戦争は元来銀行家と資本家のビジネスなので、国家をつぶすためとか人を殺すことが第一目的ではないから、武力戦争にこだわる理由はないのです。

といっても人命を尊重する気持ちが発生したとかモラルが芽生えたとかいうことではないです。

効率が良く利益率が高い方へシフトしただけです。

アメリカは、金で金を買う金融資本主義にはまりすぎて、ものつくり産業が空洞化してしまい、もう製造業での復帰は絶望的と言われています。

サブプライムローンやリーマンショックという経済崩壊もすでに起きてしまい、とにかく財政がやばい。

そこで、日本という巨大な市場から金を吸い上げるために、いまTPPをはじめありとあらゆる外交戦略が仕掛けられています。

具体的なことは長くなるので省きますが、
TPPの核は農業問題とかではなく、国民皆保険制度という「関税障壁」撤廃による外資多国籍企業の日本医療市場参入、および条約成立による法律・憲法改正を国家を超えたレベルで行うことが可能な秘密国際会議の成立です。

核心の狙いから目を背けさせるためのおとりとして農業生産物の「聖域」とかがメディアで流されているだけです。

憲法改正も、秘密保護法も、すべて裏ではつながっており、仕掛け人たちのシナリオ通りに仕組まれたことです。識者たちが抗議している場面もありますが、あれは無知かパフォーマンスのどちらかです。

FacebookなどSNSの無料提供は、憲法改正による表現の規制・および秘密保護法による強行逮捕執行常時可能状態を実現するために、個人情報を一括収集するという準備計画だったと考えることができます。

あらゆるムーブメントには裏があります。私たちがのほほんとタダでソーシャルやってる裏では、着々と民主主義を破壊するための計画が進められています。

戦争はすでに起こっていることであり、その舞台はまさに今の日本だということを理解しておかねばなりません。

いまはまだ、国民投票による挽回の可能性は残されていますし、インターネットを使った情報発信も好き放題できてますが、

もし最悪な状況が成立してしまった場合、もはやこんな文章も書けなくなります。

非常につまらぬ時代がやってきます。

われわれは意図的に情報を遮断され、欲望や快楽を刺激するような情報をテレビによって浴びせられています。
貧乏人の娯楽、工場労働者のご褒美として、馬鹿げた番組と広告を垂れ流し、思考力を奪う装置がテレビです。

確かに、それをおもしろいと思っている人たちにとっては、安い幸せの日々が約束されているという面では、今までと同じように変わりないですが、

ある程度向上心のある人や自分の力で人生を切り開きたい人には地獄のような時代がやってきます。

表現人にとっては史上最悪の時代がきます。

情報戦争がこれまでの武力戦争と違うのは、それがよりわれわれ一般人の日常と近い場にあるということです。

大戦時の日本も戦争が日常を支配していましたが、それは戦争を行っている当事者だから当たり前として、

現代の日本は戦争を放棄した国として一切の戦争には関わらないとしているにもかかわらず、

海外勢力の情報戦争にはすでに巻き込まれています。知らない間に。

われわれ一般人にとっての情報戦争とは、「想像力・主体性・思考力・表現力」を賭した戦いです。

賭けるものが生命ではなくなったので、「戦争」という言葉にはリアリティがないかもしれませんが、

これは間違いなく形を変えた戦争です。いや、もはや別の言葉が必要なのかもしれない。それくらい新しいタイプの闘争現象が起きています。

具体的に言えば、過去のやり方や常識、大企業・官僚気質によって若者たちは可能性の芽を早期から詰まれ、種々の契約やローンにがんじがらめにされたあげく、一生を替えのきく労働力として使い倒される。

これは敗北のケースです。想像力・主体性・思考力・表現力の全てが奪われています。

これは人生ではありません。

フィクションです。一見リアルのように思える、ウソの物語です。

誰かが仕掛けた物語、しかもそいつだけの利益を優先した物語にのっている限り、生きていても死んでいても同じです。

アインシュタイン以降の時間は現在の一点の中に凝縮して空間と同義的に存在していると言われています。つまり現在も未来もすでにわれわれの中で起こっている。

だから、いまの時点で想像力・主体性・思考力・表現力のない生活をしているならば、30年後も50年後も死んだ生活をしているのと同じ。物理的には生きていても、真の人間存在としては死んでいます。

これが新しいタイプの殺人です。生命を奪わずに想像力・主体性・思考力・表現力をうばうことでドレイ化する。これほどクリーンでお手軽でコストのかからない殺戮はありません。

武力で無理矢理生命を奪わなくても、本人が進んで「それでいいんだ」と自ら長い自殺の道を歩むように仕掛ければ、一見平和的に見せかけられるし、仕掛け側は恨まれるどころが逆に感謝されたりする。
カルト宗教と同じ。非常に頭のいいやり方です。

つまり、われわれは日々、情報戦争という過酷な戦いに投入されているのであり、知識と情報収集力、情報発信力、そして志同じくして覚醒した同志を得て、自分の人生を取り戻すための闘争を戦っていかねばならぬということです。これは目を背けることのできない現実です。

先ほど述べた「クリーンな殺人/長い自殺」にはめられたら負けです。

しかし勝利とは何か、これは具体的に定義することは難しい。
仮に想像力・主体性・思考力・表現力を最大限に発揮した独立した人生を送っていたとしても、それをもって本当に勝利と言うことはできないと思います。

また、仮に隷属的な固定給生活を送っていたとしても、
自らの考えある選択によって主体的にそれを選んでいるならば、人間存在としては殺されていない。自分の人生だと誇りを持って堂々とできるはず。生き抜いています。

だから、表向きの形は関係ない。ただし、主体性は保っていないければならない。
官僚機構的大組織の中でも主体性をもっていればリアルな人生だし、独立して生計を立てていても思考のともなわないコピー作業をしているのならフィクションです。

こういった認識は、改めて言語化することで、自分の身に降り掛かっていることだと実感することができます。

この文章を読んでいる人がどれだけいるか、知れたものですが、
それでもわたしは、人々が可能性をむしりとられ、虚構の人生に甘んじているのを見ているのがたまらない。だから、毎日こうやって情報を発信しています。表現制作をしています。

それがわたし自身の戦いでもあるからです。これらの文章は、日々わたしが思考している結果であることは間違いない。

わたしたちが表現創作活動を続けるのは、そのままではフィクションで終わる「長い自殺」を強制させられる人生を、真にリアルな人生に変えていくためです。

そのために、一見矛盾しているようですが、フィクションという制作物を作り続けるのです。作品の中にわたしたちの真の思考・真の生命が生きています。

鏡の中の世界に現実がある。夢の方が現実なのです。
現在、この身体が所属している空間の方が、誰かが仕掛けた虚構の物語であり、偽物の人生空間なのです。
あなたの真の生命は、あなたの頭の中にあり、それはあなたが想像力・主体性・思考力・表現力を発揮しはじめた瞬間からしか発生しません。

頭の中のイメージを具体的に現実化していってはじめて、自分の真の人生がこの世に顕れてくる。
仕掛人たちが作り上げた「現実」という情報世界をハッキングしていくのです。

わたしは20歳をすぎるまでずっと死人の生活をしてきました。
長い自殺を実行していました。
しかし、もうそれはやめました。わたしの生命世界と、仕掛人たちが作り上げた虚構の現実世界と、どちらがリアルであるか、どちらがフィクションであるか、決着をつけるための戦いを日々生きているのです。

それは血の色彩も愛のドラマも武器の轟音もない、穏やかな戦いではあります。しかしそれは日々、わたしたちのまわりで、いまこの瞬間にも起きていることなのです。

たとえばFacebookをみれば、ほら誰かがが自分の考えを、悲痛な叫びを、勇気を持って発している。
それは、わたしたちと同じ日常を過ごし、同じように退屈で変わりばえの無い生活をしているたちから発せられた魂の声なのです。

その声に答えられる人であってほしい。